左利きのはじける脳みそ

おっさんが必死に今を生きる、人生の備忘録

最古の記憶が意味するもの

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はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」というお題があったので書こう。

 

私の最古の記憶、それは音もなく、ただ映像だけが脳内に残っている。

人というのはどうして「不の感情」の記憶が残ってしまいやすいのだろう。

残念に思う。

もっと幸せな記憶が残れば人生楽しいだろうに。

だが、生きているときというのは、「魂の修行」という話もよく聞く。

修行とは辛いものだ、決して楽ではない。

私の癖で思考が止まらなくなる。悪く言えば妄想だ。

過去の過ちをいく日も引きずる、未来の起きていないことでも妄想しては落ち込む。

私の脳内は、一つ一つの記憶を忘れないためにそうさせるのかもしれない。

きっと意味があるのだ。

ではあの最古の記憶になんの意味があるのかはさっぱりわからない。

嫌だったイメージしかないが、何かの教訓があるのかもしれない。

 

あれは私が幼稚園時代、思ったより大きくなってからの記憶だ。

もっと幼いときの記憶がないかと記憶をたどるが見当たらない。

合唱中の出来事だ。

ここは教室だろう。合唱のため椅子で段が設けられていた。

私は視界的に椅子の上、2段目にいる。

皆で歌っている。

次に視界に入ってくるのは足元の水たまりだ。

そう、合唱中にお漏らしをしているのだ。

なんとも、最古の記憶がお漏らしとは、恥ずかしいが本当に嫌だったのだろう。

 

私はこの記憶をたまに笑い話として話すが、あの当時、4〜5歳でも人前で漏らすということがどれほど恥ずかしく辛いものかを理解していたつもりだ。

この恥ずかしさ、辛さが人生の教訓なのかもしれない。

 

私の次男が小学校の入学式中、記念撮影時になんとお漏らしをした。

その時にあの記憶は呼び起こされた。

写真を撮った後クラスメイトが退場する中、息子の姿がないとおもっていると先生と手を繋いだ次男がとぼとぼと歩いてくる。

どうしたのか聞くとお漏らしをしたという事実を知った。

トイレに行きたいということをタイミングを逃し言えなかったそうだ。

そのまま先生に手を引かれ保健室に連れて行かれた。

クラスでのホームルームにまだ姿はない。

ホームルームも終盤になると次男が教室に戻ってきた。

上は入学式のままブレザーを羽織り、下は貸し出されたであろう体操着を履いていた。

上下のバランスがなんとも言えない感じになっているが仕方がない。

帰り道も浮かない顔で歩く次男。

晴れ舞台の日、お漏らしをしたという恥ずかしさ辛さは今後も忘れないだろう。

彼にとって嫌な記憶が残ってしまったに違いない。

でもお父さんは、今の君の気持ちを痛いほど理解している。

この時のための記憶だったのだろうか。

 

息子よ、心配はいらない。

いつの日か笑い話にできるから。